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「先義而後利者栄」 大丸 下村彦右衛門

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正直・律義で慈愛深く

「人は正直で慈愛に富むのが第一。衣服や食事のおごりもいけないが、心のおごりが最もいけない。いかに才知に優れていても不義理な人間は役に立たない。まして主人たるものは、正直・律義で慈愛深くなければ多くの人の上には立てない。」

大丸の業祖、下村彦右衛門正啓の遺訓である。併せて「世間では目先のことだけを考えて商いをする者があるが、そういうやり方は嫌いである」とも言い残している。

享保二年(1717年)、29歳で京都・伏見に大丸の前身である呉服屋「大文字屋」を開店した彦右衛門は、その後順調に商売を広げていったが、創業20年の節目を目前にした頃、筍子(じゅんし)の言葉を借りて自らこう記したという。

先義而後利者栄(義を先にして利を後にする者は栄える)

これを掛け軸にし、京都・大阪・名古屋の全店で座右の銘とするように命じた。事実、彦右衛門はかねてから貧しい者に施しをいとわない「義の人」であった。庶民の絶大な人気を得たのもうなずける。

この銘が飾り物でなかったことを証明したのが創業から120年後、天保8年(1837年)の「大塩平八郎の乱」である。

大丸は義商なり

数年にわたり襲った「天保の大飢饉」により、餓死者が多数出るなど世の中には暗雲がたれこめていた。「天下の台所」と呼ばれていた大阪でも状況は同じである。

大阪町奉行の子に生まれた大塩平八郎は、与力などを歴任した後、私塾「洗心洞」を開き、多くの門弟に「知行合一(ちこうごういつ)」を唱える陽明学を教えていた。世の惨状を見かねた大塩は、救済策を奉行所に建言するが、一向に相手にされない。そこで、ついには自宅に火を放ち、門下生らとともに決起することとなった。

兵火に焼かれた家は約2万戸。大阪市中の4分の1にも上り、死傷者は二万数千人と記録されている。豪商達も多数襲われたが、そのなかで襲撃を免れた店があった。「大丸」である。

大丸の前にきたとき、大塩は「大丸は義商なり。犯すなかれ」と叫び、民衆を抑えたと伝えられている。

「先義後利」-。彦右衛門が定めた理念を、後に続く人々が愚直なまでに遵守してきたことが「奇跡」を呼び起こした。この言葉は、制定以来280年を経たいまも、大丸の社是として大切に受け継がれている。

下村彦右衛門
下村彦右衛門(1688~1748)

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