安政の地震と大津波の被災者救援に当たった行動は「稲むらの火」として教科書に。 浜口梧陵
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浜口家は、和歌山県有田郡広村(現在の広川町)の名望家である。広村の漁民は、古くから他国の海に出て漁をしていた。西は九州の五島列島、東は房総半島がその舞台だったが、銚子に定住する者が出てきた。
ふるさとの紀州と銚子をつないだのが、醤油である。広村のあたりは醤油の生産が盛んな土地であった。浜口家は、長男の吉左衛門家と次男の儀兵衛家があり、次男家の初代儀兵衛が下総国(千葉県)銚子に出店をして、醤油醸造を始めたのが、現在のヤマサ醤油の起こりである。
正保2年(1645年)のことである。次男家の当主は代々儀兵衛を名乗った。江戸が大消費都市として発展を続け、銚子の醤油の製造の規模も大きくなっていく。
六代儀兵衛に跡継ぎがなく、分家の七吉右衛門家の長子が本家を継ぐことになり、七代儀兵衛となった。この人物が、浜口梧陵(文政3年・1820年~明治18年・1885年)である。広村で生まれ、天保2年・1831年に12才で本家を継ぐことになり、名を儀太と改め、家業を見習うために銚子に行った。
浜口家では、主人であっても少年時代は安逸な生活は許されず、困苦に立ち向かうことのできる精神を養い、人を率いる方法を体得するために、丁稚や小僧と寝食を共にするのがしきたりであった。
銚子の本店にも江戸の支店にも、しっかりした番頭がいるから、業務は彼等に任せておけばよかった。20才で結婚したが、梧陵は武芸と学問に励み、特に槍術は奥義を極めるほどであった。その頃、長崎で蘭学を学び、銚子に住んでいた三宅艮斎と知り合い、西洋事情を学ぶ。
そして、梧陵は31才で佐久間象山の門下生となり、兵学や砲術を学び、勝海舟に出会う。梧陵は、海舟より3才年上で経済的に支援している。「氷川清話」の中で、次のように書いている。
海舟を援助していた利右衛門が、「万一、私が死んであなたの頼りになる人がなくなっては」と言って、二、三の人を紹介してくれたが、その一人は嘉納治右衛門、これは治五郎(柔道・講道館の開祖)の親に当たるので、灘の酒屋をやっていたのだ。いま一人は伊勢の竹川竹斎という医者で、その地方では屈指の金持ちで、蔵書も数万巻あった。それからいま一人は日本橋の浜口、国会議員をしている浜口の本家であった。すべてこれらの人はそれぞれ一種の人物で、さすがに渋田の眼識は高いものだと、おれは後で悟った」と。
江戸での学問と交友から、時代の動きを知った梧陵は、郷里に帰ると、村の青年たちを集め、異国船渡来の事情を話し、国の危機存亡を訴えて、広村崇義団という農兵を組織。
しかし、嘉永6年(1853年)に養父が亡くなり、家督を相続。名を儀兵衛と改め、再び江戸へ向う。江戸で西洋文明の長所を知った梧陵は、海外視察を申しでるが、許されない。
帰郷した梧陵は、人材の育成に勤めた。安政の地震と大津波の被災者救援に当たっての行動は、昔の教科書に「稲むらの火」として紹介された。
梧陵は、被災した村人が呆然自失としている様子を見て、行動を起こす。家を50軒新築し、貧しい者には無料で、働くことのできる者には10年年賦で貸与し、農具や漁具を分配し、商人には資金を貸与した。
そして、浜口吉左衛門と共に、津波の被害を防ぐために防波堤築堤の計画を申し出る。「浪除けに高さ2間半(4,5メートル)、長さ500余間(約1000メートル)の築堤を許可して下さい。工費は私財を投じて行います」という内容である。
この計画で注目すべきことは、築堤工事で村民に職を与えるという御救普請であったことである。貧しい人々に米やお金を与えて恵むというのではなく、仕事の場をつくることにより収入を得る道を開くという方式である。
人足延べ56,736人、費用94貫44匁(約1370両)という大工事を安政2年(1855年)に起工。現在で言えば数億円を超える公共事業を、梧陵は始めたのである。 毎日400~500人の村人が工事にかかわり、賃金をもらう。農繁期には工事を休み農閑期に再開するというやり方で、安政5年(1858年)に工事は完成した。このようなやり方だから、村にも活気が戻った。
梧陵の功績は、まだある。安政4年(1857年)江戸在住の蘭方医83人が、幕府へ開設願いを出し、ようやく出来上がったばかりの種痘所が大火で焼失してしまう。再建の見込みが立たず困惑している時、梧陵は友人の三宅艮斎を通じて300両の再建費を出す。種痘所は幕府直轄となるが、図書や器具の購入費として、さらに400両を寄付した。
この種痘所は、文久元年(1861年)に西洋医学所と改称される。現在の東京大学医学部の起源である。
浜口梧陵は、それらの功績により、明治時代に入り、和歌山県議会議長などを歴任するが、ニューヨークでなくった。
江戸時代から明治維新という激動期に生きた浜口梧陵。その志の大きさと行動にはただ驚嘆するばかりである。

浜口梧陵(七代目 浜口儀兵衛)(1820~1855)
広範な知識と深い知恵を盛った人材の育成こそ梧陵の生涯追い続けたテーマだった。学校設立には、特に熱心で、郷里に耐久社(現・耐久中学・高校)をせ設立したほか、英語学校の開設にも尽力している。
資料 広川町役場