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「昔、奈良茂・紀文とて一双の豪夫あり」 奈良屋茂左衛門

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 奈良屋茂左衛門は、「昔、奈良茂・紀文とて一双の豪夫ありしは世の知れる所なり」と紀伊国屋文左衛門と共に、並び称された豪商である。

 紀伊国屋文左衛門は、上野寛永寺の修復工事を請け負い豪商の座についたが、奈良屋茂左衛門は日光東照宮の修復工事を請け負うことにより、紀文と肩を並べる存在となつた。 天和3年(1683年)5月24日、日光に大地震があり、東照宮・倫王寺などの堂塔が被害を受けた。越後屋・三井高利が駿河町に店を移転し、「現金掛け値なし、正札商法」により、大評判を呼んだ年である。

 茂左衛門が独立して、わずか1年で日光東照宮の修復工事を落札できたのは、市場を独占していた老舗・柏屋伝右衛門に対して、旧来の慣習を破った発想と才知によるものだったが、一方で伝右衛門は幕府の工事に協力しない罪で逮捕され、三宅島に島流しになり、店は厥所となってしまった。

 奈良茂は、結果的にただで入手した檜で工事を完成させ、巨額の利益を上げたのである。こんないきさつから、奈良茂はずるいというイメージがあるのか紀文ほどには人気がない。 それはともかく、奈良茂を語る時に欠かすことができないのは、莫大な遺産の子供たちへの譲り方である。文左衛門が一代で没落したのとは対照的に、茂左衛門は莫大な財産を残し、商売をやめた。

 この時代は、年をとったら、あくせく働かずに生活するのが理想であった。商売をやめ、このような生活に入った家を「仕舞屋」と呼ぶのだが、茂左衛門はこの道を選んだ。

 正徳4年(1714年)、茂左衛門は、商売をしてはいけないこと、生活は派手にならないように慎ましくすること、財産の分け方などを遺言に残し、亡くなった。

 「江戸真砂六十帖」によると、遺産は家屋敷数十カ所、現金四十万両、時価にして数百億円とあるが、十三万二千五百三十両だとも伝えられており、ここでは後者の説をとる。 

茂左衛門は財産を、

・家屋敷沽券高(不動産)
・有金(現金)
・預け金(大名、武家、農民への貸付金)
 を、
妻・捨…三千両
長男・茂左衛門…七万三百九十両
次男・安左衛門…五万三百七十両
親類…五千百三十両
番頭・手代…三千六百四十両 
 に分け与えた。

 遺言には、「生存中から言っているように、誰からの申し出であっても商売をしてはならない。番頭や手代などから勧められても、商売をしてはならない。不動産や現金を減らさないように、店子からの家賃で生活をすること」と書き残した。

 だが、金は使い切れない程あり、時間も自由になる、20才になったばかりの血気盛んな若者には、酷な遺言であった。
 「昼は極楽、夜は竜宮城」の吉原は、「遊客は他人百金を費やせば、我は千金を費やしたりと、多く費やすをこの里の規模とす」世界である。息子は、この吉原で放蕩の限りを尽くした。

 その吉原での遊びにも飽き、一族郎党20数名を引き連れて上方へ旅に立つ。京都、大坂の歓楽街で、上方の人々が呆れるほどの贅沢ざんまいの遊びを繰り広げた。しかし、7か月に及ぶ上方での放蕩生活で、体は衰弱仕切っていた。江戸に帰った息子は床に伏したまま回復することなく、遺産をきれいに使い切って、31才の短い壮絶な一生を終えた。

 なぜ息子は、狂ったように遊びに身を任せなければならなかったのか。奈良屋茂左衛門親子の一生は、創業者が二代目に事業をどのように引き継げばいいのか、父親は子供になにを残すべきか、問いかけている。

 元禄バブルに乗り、彗星のように登場した紀伊国屋文左衛門と奈良屋茂左衛門という二人の豪商は、バブルの崩壊により、歴史の舞台から姿を消して行った。

奈良屋茂左衛門(1654~1714)

家業は材木商だが、大八車に荷を積んで商う零細な商家にすぎなかった。当主は代々茂左衛門を名乗り、ここでいう奈良茂は三代目とも四代目ともいわれている。晩年は剃髪して安休と称した。

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