「商家の極意は信用を重んじ内外の好評を得るにあり」 塚本定右衛門(紅屋)
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勝海舟は「氷川清話」の中で、巨万の富を持ちながら自分のことには構わず、世の中のために財産を使い続けた近江商人・塚本定右衛門(紅屋)を、
「田舎にはまだ本気の人がいる。おれの知っている人にもこの種の人が沢山あるが、江州の塚本定次といふ男は、実に珍しい人物だ」
と語っている。
勤勉に働くだけではなく、このような心掛けで商いに励んだからこそ「近江商人」は一目置かれる存在となり、老舗として発展を続け、今も影響力を保っているのである。
近江商人の「三方よし」の哲学こそが、世界で初めての「顧客満足経営」であった。日本企業が、21世紀にも繁栄を続けることができるか否かは、「三方よし」の理念を継承できるかどうかにかかっている、と私は考えている。
代々神崎郡川並村(五個荘町)に住み、農業を営み、布洗業を。定右衛門定悦のとき、家を興し、長男の塚本定次が定右衛門を襲名し、豪商といわれる。
定悦の父・教悦が死ぬ時、善業をし、家業に励め、家を興すのが親孝行の第一だと教えた。その後、母の教えに従って、19歳で五両の資本で小町紅を仕入れて、磐城岩代(福島県)へ売りに出た。
諸国を歩いた定右衛門は、商売に最適の地を見つけた。江戸に近く交通の要所でもあった甲府である。
文化9年(1812年)に甲斐の甲府を中心に小間物類を行商し、呉服・太物を扱い、定宿の土蔵を借りて、紅屋という小間物問屋を出す。この店を佐助という店員に任せ、定悦は京都に店を構え、もっぱら仕入れに力をいれた。
「かせがずにぶらぶらしてはなりませぬ、一文銭もたのむ身なれば」の短冊を風鈴にして商売に励んだ。
また、安政5年(1858,年)の飢饉の時には多年の蓄財を村の貧しい人々に放出した。嘉永4年(1851年)に隠居し、万延元年(1860年)に没。
定次が、嘉永4年(1851年)に26歳で家督を継いだ。若い時から松井遊見のことを見習って巨万の富を得たいと願っていた。営業方針を「多利僅商」から「薄利広商」に転換。
そのために、店員に得意先の繁盛を祈り、商品の注文の時にはすぐに渡せるようにし、品物の吟味を十分にやり、無理なことは決してするなと教えた。
棚卸しの時、成績の悪いものには何も注意せず、良い時だけ褒めよといった。24歳で定右衛門を襲名したが、ちょうど幕末から維新にかけての困難なときだったので、アイデアと勇気をもって事に処し、巨万の富を得た。 安政の大地震の時には、関東の商人は約束の商品を引き取らなかったが、問屋仲買人を困らせてはいけないと定右衛門と約束通りすべて買取り、関東に運んだところ、物資が欠乏していたから、飛ぶように売れた。
明治5年(1889年)には日本橋伊勢崎町に店を開いた。本業の傍ら、幕末から維新にかけて明治のオピニオンリーダーである福沢諭吉や勝海舟などとの交流も深めた。
五個荘の戸長、県会議員を勤める。
明治38年(1905年)に没。
家内申合書
「すべて物ごと堅く致し候とも、思ひの外なる損失出来る事あるものに候、古今の歴史に鑑みて知るべし、いかなる因によりてか、いかなる縁によりてか、道を守る善人も窮することのあるも世の習ひに候へば、その不合せの重なりし時に及びても、常々の心を乱すべからず、必ず道に背き、規則を越えるなどの事有るまじく候、投機商類似を羨むべからず、一時に利得を得んとして、却て多分の損失を招く事あり、深く恐るべし、商家の極意は信用を重んじ内外の好評を得るにあり、我身を慎み諸事を約めにして、家穡をつとむべし、然れば家内和合して、天道に合ひ気運徐々に開くべし、永久の心得を相続する人この理りを知るべし」
遺言書
「一、神仏を敬ひ学事を心懸ること、人道なれども何ずれにても過ごせば其身の家業怠り、おのづと異形の人の様になり、神道により過ぐれば禰宜、巫の様になり、洋学は徳義を誤り、人をあなどり、儒学は理に屈し、仏に心ざし過ぎたる者は出家の如くおのづと商ひ疎くなり家滅す、各々それぞれの家業あり、然るに外の事に気を移し代々の家職粗略に致す事神仏の冥慮に叶ふべきや、又神仏の為に金銀財宝を投げ打ち数多の費へ致す事、大きなる非が事ならむか、神仏は其人の心に在り、然れば社寺の為に金銀を費やすより眷属を賑はし恵む時は一粒万倍の利又功徳広大ならむ、然るをめぐむべきを恵まずして徒らに僧尼をこやすは非がごとならずや、誠を以て神仏に向ひ奉らばなどか感応なからん、能々この旨存ずべき事」
明治砂防
「秦川山は地味も悪く、急峻である。草木の成育は悪く、岩肌を露にしている。土砂の扞止のため。非常に珍しい工事」