「事後の行き届いた手当てをして、立つ鳥跡を濁さずということが肝心である」 二代目・小林吟右衛門

 二代目・小林吟右衛門は、寛政12年(1800年)に初代・小林吟右衛門の兄である小林源左衛門の三男・亀吉として、琵琶湖岸に近い愛知川に沿った小田刈村(今の湖東町)に生れた。

 湖東地方は八幡、日野と並んで近江商人を輩出している代表的な地域である。初代・吟右衛門は、兄・源左衛門と一緒に麻布の集荷に従事していたが、文化元年(1804年)に分家し、菅笠・紅・呉服太物類の行商を始め、文政9年(1826年)に50才で隠居。生まれ故郷の小田刈村の庄屋をつとめ、78才で亡くなった。

 二代目・吟右衛門も、菅笠・呉服太物類を扱い、天保二年(1831年)に日本橋堀留に江戸店を開いた。元手金1万両。屋号は丁字屋吟次郎。32才の時である。
 二代目・吟右衛門の成功は、これまでにない商いの方法を生み出したことにある。それは、各地の農村の万屋に別送した商品を委託し、自分は天秤棒を担いで巡回するという方法である。つまり、問屋の役割を果たしながら、行商して歩いたのである。

 これにより、多くの商品を扱うことができ、利益も上がるという仕組みである。しかし、委託先の信用度やその土地の人々の需要や好みを見抜く眼力と、商品を仕入れるために必要な資金を調達する信用が必要であり、だれにでもできるやり方ではなかった。

 天保12年(1841年)には、本店で呉服縮緬を扱うほか、染物の問屋となる。
 天保13年(1842年)には、京都の支店、丁字屋吟三郎。染物問屋として繁盛。特に京都では唐紅を扱ったので、仲間では「紅屋」と呼ばれた。

 ここで、逸話を一つ。
 吟右衛門は、寝る前に酒を所望した。家族は肴のないことを伝えると、昼間あった干鰯はどうした、と。手代に食べさせたとの返事を聞き、仕方なしに庭を眺めながら肴もないまま呑み出した。

 気を聞かした家族の者が、愛知川まで使いをやり買い求めた干鰯を出すと、吟右衛門は喜ぶどころか、無駄なことはするなと怒鳴った。
 その場へ、儀助という店の者が行商から帰ってきた。儀助は旅の途中で盗人に400両(8千万円相当)をとられたと報告、詫びた。しかし、干鰯で怒鳴りつけた吟右衛門は、「旅で盗人に狙われることもあるだろう、今後は注意せよ」と言い、「ご苦労、ご苦労」と繰り返し、儀助を責めることはなかったという。

 文久元年(1861年)に大坂店を開く。屋号は、丁字屋吟兵衛。丁吟を名のった。呉服仲間、繰綿仲間、糸仲間、紅・白粉仲間、絹仲間、木綿仲間、京都紅花仲間、江州麻仲間、江戸三組両替仲間にも加入。
 江戸・京都・大坂の三都に店を持ち、手広く商いを行う押しも押されもせぬ豪商としての地位を築きあげた。彦根藩為替方御用達もつとめ、苗字帯刀を許されていた。藩主・井伊直弼とも親交があった。

 そんな絶頂の時に、ある「事件」が起きた。文久元年(1861年)11月、京都の両替商・伊勢屋藤兵衛が100万両の損失を出し、閉店した。倒産である。伊勢屋は江戸にも支店があり、近江商人の間には信用があり、取り引きをする者が多い店だった。
 伊勢屋閉店のニュースが伝わると、バニックになった。伊勢屋に5000両を振り込んでいたある商人は、大慌てで回収の方法をとった。深夜、親交のあった吟右衛門にも、その店の番頭が伊勢屋倒産を知らせに来た。

 番頭は、自分の店は5000両もの大金をやられたが、丁吟もさぞ大金を損されたのではと聞いたところ、吟右衛門は使者の番頭に礼を言いながらも、「14万両の損害を受けただけです」と答え、泰然としていた。
 この倒産による最大の被害者は丁吟であった。吟右衛門、63才の時である。半生をかけて築いた財産が失われた。今の貨幣価値に換算すると、300億円相当の金額である。

 その番頭は、吟右衛門の悠然とした対応に唖然として店を去った。丁吟でも、番頭などが上京して払込金の返戻を督促しなければと評議したが、吟右衛門はこれを制して言った。
 「上京しても何の益もない。丁吟がいま14万両の損失を出したと言えば、丁吟が危ないと思って為替の返戻を請求してくるであろう。したがって、その支払い準備びこそが急務である」と、丁吟の信用不安と取り付け騒ぎに対処するために、陣頭指揮に当たった。

 案の定、続々と返戻の請求が来た。丁吟では、それに応じてすぐに支払いをした。丁吟の対応を見て、富の膨大なことを知った預金者たちはいったん返戻した金を再び預けに来た。

 吟右衛門は、支払いが一段落した11月23日、その年に開店したばかりの大坂店の閉店を指示。落胆する大坂店の従業員に、災難に会った時の心得を語った。
 「このような時に、一番の大切なのは目先の外聞にこだわるよりも、事後の行き届いた手当てをして、立つ鳥跡を濁さずということが肝心である。自分は幼い時から何度も不慮の災難に会ったが、その時に慎重に対処すれば、世間の人々が好印象を持ってくれて商売も自然に回復し手広くなるものであるから、伊勢屋の倒産に際しても、このことをよく考えることが大切である」と。

 この機敏で適切な処置により、丁吟と吟右衛門の信用は一段と上がり、豪商としての名をさらに高めた。
 二代目・吟右衛門が家業を継いだ時の資産が1270両。それを50年間で13万7426両と100倍を超える財産を築き、73歳で亡くなった。


二代目・小林吟右衛門(1800~1873)

養父である初代・小林吟右衛門とともに15才で行商を始め、1826年に家督を相続。やがて江戸・京都・大坂の三都へ進出し、両替商なども商って巨富を得た。彦根藩主・伊井直弼と親交があり、幕末にはら攘夷派から狙われたという逸話も残っている。

資料 近江商人郷土館




顧客満足経営
近江商人は、始末して勤勉に働くだけではなく、「売り手よし、買い手よし、世間によし」の「三方よし」で商いに励み、陰徳を積んだ。これこそが、お客様の満足を追求することにより企業の永続的発展を目ざす「顧客満足(CS)経営」の源流であり、世界に誇ることのできるビジネスモデルである。

CS(顧客満足)経営をテーマに企業・地方自治体で指導。現在は、(社)日本経営協会専任講師、千葉県生涯大学校・統括講師として活動。著書は「先進11社にみる顧客満足経営」「江戸商人の経営哲学」など。

近江商人に学ぶ
「長者に二代なし」と言われた江戸時代、その多くは一代で没落した。その一方で、老舗として何代も続いた店も少なくない。なぜ、そのような違いがでたのか。金儲けがうまかったからなのか、それとも金儲けのためには手段を選ばなかったのか。
その疑問を解いてくれるのが、江戸時代の豪商である。なかでも、伊勢商人とならび称された近江商人の生き方は、私たちに大きな示唆を与えてくれる。