元禄時代における江戸の長者番付の横綱は「紀伊国屋文左衛門 五十万両」とある。井原西鶴は、自分の才覚で銀五百貫目(八千三百両)以上稼ぎだした金持を「分限者」、千貫目(一万七千両)以上を「長者」と定義しているが、この基準から見ても飛び抜けた豪商だったことが分かる。
五代将軍・綱吉は、「犬公方」と呼ばれ、悪名高い将軍だが、「武断政治」から「文治政治」へ転換をはかるために儒学を振興。先祖を敬い、仏教を篤く信奉し、日光東照宮の再建、上野寛永寺の修造、湯島聖堂、護国寺など、寺院や学問所の建設に力を注いだ。
大名や旗本の屋敷を作り、各地の城下町が拡大発展を遂げている時に、このような事業を推進したのだから、江戸のまちは建築ブームに沸いた。
新井白石は、「折り焚く柴の記」で、檜の値段が金の倍以上にも高騰し、材木商がたちまちに巨万の利益を得たという話は数え切れないと書いている。文左衛門が豪商の座についたのは、元禄11年(1698年)に上野寛永寺の修造工事を落札したからである。 比叡山延暦寺に匹敵する格にするために根本中堂をつくり、いくつもの付属施設の建設をする大工事を落札することができたのは、なぜなのか。この時代も「入札制度」により業者を決めていたのだが、白石は「このこと公明正大の公事に見えて実はさにあらず」と暴露している。
実は、たてもの(保証金)と礼物(賄賂)の多寡により、誰に落札させるかが決まり、役人も賄賂によって莫大な財産を築いたが、その元締めが勘定奉行・荻原重秀である、と。 「元録、宝永のころの悪所の繁栄は、昼は極楽のごとく、夜は竜宮城のごとし」と言われた吉原で、文左衛門は毎晩のように豪遊した。時の権力者である側用人・柳沢吉保、勘定奉行・荻原重秀・老中・阿部正武ら幕府要人を接待し、工事を落札したのである。
「天下の利権を一手に握り」、「天の声」を発した勘定奉行・荻原重秀が在職中に商人から受け取った賄賂は、二十六万両とも五十万両とも伝えられている。文左衛門の財産五十万両と比べて、その額がいかに莫大なものであったか。
しかし、放漫経済政策は破綻。六代将軍・家宣は、新井白石らを起用。「正徳の治」により、緊縮政策を打ち出し、役人と特権商人の癒着に厳しく対応した。荻原重秀は貨幣の改悪によるインフレ政策の責任をとらされ、賄賂も発覚して失脚。
バブル景気に乗り、幕府高官と癒着し、政商として財を築いた文左衛門にとって、政策の変更と荻原重秀の失脚は致命的であった。黄金の日々も、バブルの崩壊により幕を閉じた。晩年は、八丁堀から浅草への引っ越し悠々と隠居生活を楽しんだという説と、不遇のうちに死んだという説があるが、本当のことは分からない。
紀伊国屋文左衛門は、御用商人として役人と癒着し、目的のためには手段を選ばないやり方で財産を築いた政商豪商である。それなのに、ヒーローとして語り継がれているのは、「大名が怖いものかと文左衛門」の川柳に見るように、役人に賄賂を使い取り入っても、権力に屈しなかった反骨精神に共感を覚えたからではないか。
しかし、紀伊国屋文左衛門が教えているのは、一攫千金を狙った濡れ手で粟の投機的経営は長くは続かないということである。
「紀ノ国屋文左衛門(1665~1734)
元禄時代の豪商。紀州に生まれた。風波のため航路が絶え、紀州ミカンが地元で下落し、江戸において騰貴したのを見て、決死の覚悟でミカンを江戸に運送し巨利を博した。
<沖の暗いのに白帆が見える。あれは紀州のミカン船>
の俗謡によって世人に深い印象を与えた。のちに江戸八丁掘に材木問屋を営み、幕府の御用商人となり、上野寛永寺根本中堂の資材調達などをおこなって巨富を積んだ。 同時代の奈良屋茂左衛門と並んで、その豪勢な生活は<紀文大尽>として世に騒がれ、<紀文大尽郭入船(きぶんだいじんくるわのいりふね)><文左大尽舞(ぶんざだいじんまい)>など、演劇・洒落本にも取材されている。俳諧を其角に学んで千山と号した。
晩年、柳沢吉保、荻原重秀らの失脚により、彼らにとり入っていた彼も急速に没落し、深川に隠居した。なお、ミカン船の冒険によって創業の基を築いたのは初世で、材木問屋を営み、豪遊したのはその子であるとの説もある」 平凡社 百科辞典
近江商人は、始末して勤勉に働くだけではなく、「売り手よし、買い手よし、世間によし」の「三方よし」で商いに励み、陰徳を積んだ。これこそが、お客様の満足を追求することにより企業の永続的発展を目ざす「顧客満足(CS)経営」の源流であり、世界に誇ることのできるビジネスモデルである。

