「前代未聞の豪富」(米商日記)と謳われた淀屋の当主・五代目三郎右衛門、通称辰五郎が、町人の分限を超えた奢侈・驕慢を咎められ、闕所(田畑・家屋敷・家財の没収)に処せられたのは、宝永2年(1705年)5月であった。赤穂浪士の討ち入りの3年後のことである。
「屋敷を百間四方に構え、家作の美麗さは比べるものはない。大書院、小書院はすべて金張り、金襖、庭には泉水立橋、唐大和の樹木を植え、夏屋敷と称してびいどろ(ガラス)の障子を立て、天井も同じびいどろに張り詰め、清水を湛えて金魚を放っている」
「元正間記」は、その生活ぶりを、このように伝えている。屋敷は表は北浜に面し、裏は梶木町(現在の北浜4丁目)にまで及び、東は心斎橋から西は御堂筋までの約一万坪という広大なもので、跡地は堂島新地開発がされ米穀取り引きの地になった。
「家富み、繁盛して、自分の家の前に橋をかけ淀屋橋と名づけ、48戸前のいろは蔵を所有し、あらゆる宝を買い集め、長者号を受けた」
とあるように、淀屋橋は自分の家の前に橋をかけようということ出来たもので、淀屋は大坂一の豪商としての地位を揺るぎないものにしていた。
「数寄屋の構へ、金銀の延べたるごとく、大座敷には欄間に四季の草花を彫らせ、両縁高欄は朱塗に塗り立て、大名高家の廉中方もいかで及ぶべき、表の回り、手代座敷、料理間台所の大きなる事言語たえ、それぞれ役人を定めて家内は常に市が立つ。
これによりて西三十三カ所の国の大名衆の御用を承り、西国九州の諸大名淀屋金借用無きは一人もなしといへり、金銀の威勢には諸大名より御付届け家老用人の歴々にも手をつかせ、高位大禄の御方々共膝を組みて居る事有り」
数寄屋づくりの邸は、どんな大名の屋敷もかなわないほどで、淀屋に金を借りている西国九州の家老は、番頭にも頭を下げ、付け届けを欠かさなかったというのである。
だが、士農工商の時代に、大名が商人に藩の財政を握られ、番頭にまで頭を下げなければならないことは耐えがたい屈辱であった。緊縮政策を進めている幕府にとっても、淀屋の破天荒で贅沢な生活ぶりは掟破りの目障りな存在であった。その淀屋を潰せば、大名や将軍家は借金が帳消しにすることができる。
幕府にとって、淀屋厥所は一石二鳥の効果が期待できた。あり余る財産を持ち、贅沢三昧の生活に明け暮れた5代目・淀屋三郎右衛門、通称辰五郎は、その標的となった。
没収された財産は、美術品・鉱産物のほか、金約12万両、銀約12貫5千貫目、大坂・京都・伏見などに所有していた171か所の屋敷、240カ所にのぼる田地である。
さらに、将軍家におよそ80万両、諸大名には1億貫目の銀を貸し付けていたが、闕所によりこれらの莫大な借金もすべて帳消しになった。
淀屋の闕所は、3年後に近松文左衛門が浄瑠璃「淀鯉出世滝徳」(よどこいしゅっせたきのぼり」として上演されるなど、当時の話題をさらった“事件”であった。
辰五郎は府下の八幡市に追放され、下村故庵と改名、晩年を送ったが、その一生は、 「奢ってはいけない」ということを教えていると同時に、商人はいくら金を持っていても、法を破ったらお終いであることを、改めて世の人々に示した。
元禄バブルがはじけ、その後に登場する豪商たちの多くが、家訓や遺言に、「法を守る」ことを挙げているのは、この事件と無関係ではあるまい。その意味では、辰五郎は後に続く商人に、どのようにして家を守るかを身を持って教えてくれた豪商でもあった。

淀屋辰五郎(生没年不肖)
淀屋や辰五郎本人に関する正史は存在しない。闕所により財産を失い、大坂市中を終われた後は、府下の八幡に蟄居し、下村故庵を名乗って静かな晩年を送ったと伝えられている。
近江商人は、始末して勤勉に働くだけではなく、「売り手よし、買い手よし、世間によし」の「三方よし」で商いに励み、陰徳を積んだ。これこそが、お客様の満足を追求することにより企業の永続的発展を目ざす「顧客満足(CS)経営」の源流であり、世界に誇ることのできるビジネスモデルである。

