「本間様には及びもないが、せめてなりたや殿様に」とうたわれた酒田の本間家は、江戸中期の豪農であり、豪商である。日本一の大地主でもあった。
本間光丘は、その本間家の三代目であり、「中興の祖」として隆盛の基礎を築いた人物である。「得を施し、得をえる」という哲学に基づき、私財を投じて、河川の治水、飢饉の救済に当たった。
いくつかの藩の財政にも関わり、上杉鷹山の米沢藩の財政改革にも貢献。庄内藩では御勝手御用掛を努め、500石30人扶持を与えられた武士でもあった。光丘の業績の中で最も特徴的なのが、酒田湊の西浜の防砂林工事である。酒田は古くは「砂潟」とも書かれ、砂防は湊の機能を守る重要な施策であった。
いわば公共事業である。それに、光丘は莫大な時間と人手と金をかけて取り組む。そのようなことから、光丘は「公益学の祖」とも謳われている。
光丘の足跡をたどり印象深いのは、三代目を継承する時の叔父・宗久に対する態度である。宗久は、今も語り継がれている米相場で名を馳せた人物である。
初代・久四郎原光は、古手・木綿・瀬戸物・米・紅花などを扱う問屋業のほか、廻船業・金融業も行い、20町歩ほどの地主になり、二代目・光寿に家督を譲る。
光寿は、長男・光丘が19歳の時に、取引先である姫路の馬場了可の「奈良屋権兵衛」に預ける。了可は商人としてだけでなく、学者としても頼山陽などとも付き合いがあった人物である。
光丘が姫路で修業している時、光寿は体調を崩し、末弟の宗久に代行させた。宗久は、託された資産を米相場に投入した。酒田は、堺・博多などと同じように、36人衆といった寄り合い組織を作り、大名権力の支配を排して、自治権を確立していた自由都市であり、日本でも有数の港町で、古くから米会所があった町である。
宗久は、連戦連勝を続け、本間家の資産はたちまち膨れ上がった。宝暦4年(1754年)、光丘が帰国した翌年、父・光寿は他界する。三代目を継いだ光丘は、宗久を解任。それだけではなく絶縁し、追放処分にする。父に代わって経営をし、本間家の資産を増やした叔父をである。
光丘は、相場では安定した経営を行うをことのできないことを、商いの本場である関西で嫌というほど見ていた。だから、叔父が本間家の資産を勝手に相場につぎ込んだことを許すことはできなかったのだ。
日本一の大地主というと、バブル時代の俄か紳士のイメージを思い浮かべがちだが、光丘の経営は全く正反対なのである。
光丘家法定め書きには、
一、米の投機はしないこと。
二、大名には貸さないこと。
三、蔵は当家に限ること。
四、商売の支障になるやり方をしないこと。五、分相応のしきたりを守ること。
とあり、「右五か条は、今後命のある限り守り抜くべきこと」と締められている。その思いの強さ、迫力には圧倒される。

本間光丘(1732~1801)
米・大豆などの千石船による商売を続ける一方、新田開発・農業振興にも力を注ぎ、小作米約4,000俵という大地主本間家の基礎を築いた。
近江商人は、始末して勤勉に働くだけではなく、「売り手よし、買い手よし、世間によし」の「三方よし」で商いに励み、陰徳を積んだ。これこそが、お客様の満足を追求することにより企業の永続的発展を目ざす「顧客満足(CS)経営」の源流であり、世界に誇ることのできるビジネスモデルである。

