八幡商人の「御三家」と謳われているのが、西川・伴・森である。その筆頭が西川家の初代・仁右衛門は、天文18年(1549年)に近江国蒲生郡南津田村に生まれ、19才でこの地で商売を始めた。今から450年前のことである。
仁右衛門は、さまざまな物を肩に担ぎ、馬や船で荷物を運び、販路を開拓したが、奈良産の蚊帳を扱っていたのが、「蚊帳の西川」と言われる起こりである。
近江商法の特徴である「のこぎり商い」により、仁右衛門は地歩を固め、元和元年(1615年)に江戸・日本橋に蚊帳と畳表を扱う店を出す。
その基盤を磐石にしたのが、麻の生地に鮮やかな萌黄色の染色をほどこし、縁に紅布を付けた「近江蚊帳」を創案した二代目・甚五郎である。
その後、元禄期には高級品であった蚊帳を庶民を相手にした商いにより、売り上げは急速に伸びていく。しかし、八代将軍・吉宗の「享保の改革」で緊縮・倹約政策と貨幣の改鋳により、物価下落と不景気が進行し、商人は厳しい状況に追い込まれる。
本店のある近江八幡では、従来の蚊帳仲間の他に、新問屋22軒、新々問屋12軒が公認され新興問屋が誕生するなど、西川も例外ではなかった。
そのような事態を打開するために、元文3年(1738年)、経営不振に陥っていた京橋・弓問屋木屋久右衛門の店を、弓の掛売金、弓3000丁、店の手代・奉公人まで引継ぎ、弓の店を開業。今流に言えば、企業買収による業態転換である。
そのような時、七代目・利助は、明和8年(1771年)家督を相続する。悪名高き田沼と「寛政の改革」の時代である。米騒動、大飢饉、台風、旱魃で世の中は混乱していた。
七代目は、改革を断行。「定法」を制定した。「定法」に貫かれている理念は、「血脈相伝えた先祖代々に深い感謝の祈念を捧げ、必ずや今後も祖志を継承するべく相勤める」という先祖に対する深い感謝の念と、祖志継承の決意である。
「定法」は、経営方針の確立を根幹としているが、第一は積立金制度の改革である。「火事と喧嘩は、江戸の華」と言われたが、西川も6度にわたり火災に遭っている。このような不時の出費に備えて、積立金制度を整備したのである。除銀といい、一つは各店の純益を積み立てておく制度。もう一つは所持している土地や家屋や貸店の地代を積み立てておくものである。
この積立金制度は、寛政11年(1799年)に、次のように整理された。
「定法書」
一、先年までは、近江八幡から江戸にきた商人の店は14店あったが、今では5店に減ってしまった。これでは、この先おぼつかないので掛屋敷(貸店)を買い求めておいた。
遊金(積立金)がなくては、火事で類焼しても普請もできないし、地代・家賃の上がりもなくなり、内々の費用ばかり掛り、ついには人手に渡ってしまう。
よって、各店・本家の長久のために「三法」(普請金・仏事金・用意金)を決めた。 その趣旨は、次の通りである。
一、普請金は、大坂の前銀(大坂で商品を仕入れる際、金額の二分を差し引いて積み立てるもの)の利子をもって、出金するようにすること。江戸両店の類焼普請に充てるために、三百両は遊金(積立金)を用意しておくこと。
一、仏事金は、持ち分の地代により、仏事帳定め書きの通りに勤めること。なお、類焼した時の用意金として二百両は遊金を用意しておくこと。
一、用意金は、掛屋敷(貸店)の普請金として三百両、その上本家の異変があったような場合の用意として、積み立てをしておくこと。
一、遊金が、まとまってできたなら、田畑屋敷などの本家財産になるようなものを調えておくこと。余分に現金を持つことは無用である。(以下略)
第二は、三ツ割銀制度である。寛政元年 (1789年)以降、毎年2回の決算において、純益のうち三分の一を奉公人に配分するという制度である。
業績に応じた利益配分で、店支配人から奉公人に直接手渡され、使い道も自由である。三分の一は内部留保に充て、残りの三分の一を本家に納める。この制度により、奉公人は働けば働くほど三ツ割配当が多くなる。成果主義の導入である。
第三は、奉公人に分家の資格を与える別家制度の「定法目録」を定め、別家の権限・義務を明確にした。本家・親類・別家の三者の共同責任体制を確立し、将来の末長い発展をもたらした。
改革だけではなく、七代目は創業以来の古い記録の整理複写など数々の功績を残した 「中興の祖」ともいうべき人物である。
七代目・西川利助
資料 西川文化財団
近江商人は、始末して勤勉に働くだけではなく、「売り手よし、買い手よし、世間によし」の「三方よし」で商いに励み、陰徳を積んだ。これこそが、お客様の満足を追求することにより企業の永続的発展を目ざす「顧客満足(CS)経営」の源流であり、世界に誇ることのできるビジネスモデルである。

