江戸時代の豪商達 を見る
「江戸時代の豪商達」の一覧。
「始末第一に、商いに励むより方法はない」 中井源左衛門
金持商人一枚起請文 近江商人の代表的人物である中井源左衛門(享保元年・1716年~文化2年・1805年)は、晩年になり毎年、新年を迎える時に「起請文」を書いた。「起請文」とは、神・仏に対する誓いの言葉である。 今年はこのような考えで商いをするから、神様・仏様どうぞ力を貸して下さいという願いを込め... 続きを読む
人の利するところにおいて、われも利する 伊藤次郎左衛門
百貨店には、江戸時代に呉服屋として創業した店が少なくない。松坂屋も江戸初期に誕生した古い歴史を誇る百貨店である。 業祖・伊藤源左衛門祐道の父・伊藤蘭丸祐広は、織田信長に仕えた織田三蘭丸の一人である。祐道も信長に仕えたが、「本能寺の変」で主君をなくしてしまう。二君に仕えることを潔しとせず、武士を捨... 続きを読む
長者番付の横綱 紀伊国屋文左衛門
元禄時代における江戸の長者番付の横綱は「紀伊国屋文左衛門 五十万両」とある。井原西鶴は、自分の才覚で銀五百貫目(八千三百両)以上稼ぎだした金持を「分限者」、千貫目(一万七千両)以上を「長者」と定義しているが、この基準から見ても飛び抜けた豪商だったことが分かる。 五代将軍・綱吉は、「犬公方」と呼ば... 続きを読む
「昔、奈良茂・紀文とて一双の豪夫あり」 奈良屋茂左衛門
奈良屋茂左衛門は、「昔、奈良茂・紀文とて一双の豪夫ありしは世の知れる所なり」と紀伊国屋文左衛門と共に、並び称された豪商である。 紀伊国屋文左衛門は、上野寛永寺の修復工事を請け負い豪商の座についたが、奈良屋茂左衛門は日光東照宮の修復工事を請け負うことにより、紀文と肩を並べる存在となつた。 天和3年... 続きを読む
「京の三大長者」 角倉素庵
江戸時代初期、京都では「京の三大長者」と謳われた角倉・茶屋・後藤の三家を織り込んだ、次のような俗謡がうたわれていた。 「茶屋のべべ着て、後藤の駕籠で、花の咲いたる嵐山、角倉船に乗りながら、主と一緒に見てみたい」 茶屋とは、若くして徳川家康に登用され戦略物資の調達、その後将軍家御用達となり朱印船... 続きを読む
「商いは高利をとらず、正直に良き物を売れ、末は繁盛」 大村彦太郎
白木屋の創業者・大村彦太郎可全は、寛永13年(1636年)近江長浜村の生れた。早くに父と死に別れ、近くのお寺の法山和尚について学んだ。彦太郎に商才のあることを見抜いた和尚の勧めで、京都で材木商をはじめ、やがて江戸に出た。 寛文2年(1662年)、27才で江戸日本橋通3丁目に新しく小間物店を開業。... 続きを読む
「始末第一に、商いに励むより方法はない」 中井源左衛門
金持商人一枚起請文 近江商人の代表的人物である中井源左衛門(享保元年・1716年~文化2年・1805年)は、晩年になり毎年、新年を迎える時に「起請文」を書いた。「起請文」とは、神・仏に対する誓いの言葉である。 今年はこのような考えで商いをするから、神様・仏様どうぞ力を貸して下さいという願いを込め... 続きを読む
「三法」(普請金・仏事金・用意金)と「三ツ割銀」 七代目・西川利助
八幡商人の「御三家」と謳われているのが、西川・伴・森である。その筆頭が西川家の初代・仁右衛門は、天文18年(1549年)に近江国蒲生郡南津田村に生まれ、19才でこの地で商売を始めた。今から450年前のことである。 仁右衛門は、さまざまな物を肩に担ぎ、馬や船で荷物を運び、販路を開拓したが、奈良産の... 続きを読む
「事後の行き届いた手当てをして、立つ鳥跡を濁さずということが肝心である」 二代目・小林吟右衛門
二代目・小林吟右衛門は、寛政12年(1800年)に初代・小林吟右衛門の兄である小林源左衛門の三男・亀吉として、琵琶湖岸に近い愛知川に沿った小田刈村(今の湖東町)に生れた。 湖東地方は八幡、日野と並んで近江商人を輩出している代表的な地域である。初代・吟右衛門は、兄・源左衛門と一緒に麻布の集荷に従事... 続きを読む
「そもそも奢りには二つがある。身の奢りと心の奢りである」 三井高房
江戸時代、上方では、醸造・海運の鴻池、製銅の住友、呉服の三井が「三大豪福者」と謳われた。なかでも「駿河町両店(越後屋)は、実に日本国一番の商人。これに続く二、三番はない」と称されたのが、越後屋である。 その繁盛ぶりは、「世事見聞録」に、「大店三カ所を持ち、千余人の手代を使い、一日に金二千両の... 続きを読む
「買う者立ち並び客は市の如く」 山本山 山本嘉兵衛
「山本山」は1690年(元禄三年)、山本嘉兵衛によって創業され煎茶を世に広め、玉露を発明するなど、お茶の普及に大きな足跡を残している老舗である。 山本嘉兵衛は、山城国(京都府南部)宇治山本村から上京、日本橋で和紙とお茶、茶器類などの茶道具を商う「鍵屋」を開業した。鍵屋の繁盛を決定づけた、ある人物... 続きを読む
「奢れる者かならず久しからず」 松居遊見
松居遊見は、明和7年(1770年)近江国神崎郡位田村(五個荘)に生まれ、幼名を久三郎と言った。文化6年(1809年)、父の死により久左衛門を襲名、25歳で三代目当主となった。遊見は法名である。 「出精専一之事、無事是貴人、一心、端心、正直、勤行、陰徳、不奢不貧是大黒」の家訓で知られる松居久右衛門... 続きを読む
「江州の塚本定次といふ男は、実に珍しい人物だ」と勝海舟も一目おいた 塚本定右衛門
「田舎にはまだ本気の人がいる。おれの知っている人にもこの種の人が沢山あるが、江州の塚本定次といふ男は、実に珍しい人物だ」 と、勝海舟が「氷川清話」の中で、称えている塚本定次とは、どんな豪商だったのか。 塚本家は、代々滋賀県神崎郡川並村(五個荘町)に住み、農業の傍ら、布洗業を営んでいた。五個荘商... 続きを読む
最初から手広く商いをしていた訳ではない 若狭屋太郎兵衛 掟書
若狭屋太郎兵衛は、大阪で薬種屋と墨屋を営んでいた豪商である。初代・太郎兵衛は、20才の時に市内の南九宝寺町に薬屋を開き、31才で家屋敷を構え、手代下人を使うようになり、墨屋を兼業するようになった。 この掟書は、太郎兵衛が安永2年(1773年)に後継者に伝えるべく記したものであり、タイトルの「最初... 続きを読む
「海の百万石」 銭屋五兵衛
加賀・金沢を拠点に「海の豪商」「海の百万石」と謳われた銭屋五兵衛。藩に納めた御用金は一兆円超。だが、膨大な財産は藩に没収され、一族は処刑された。なぜこんな最後を終えなければならなかったのかー。 金沢郊外の宮腰で、父の跡を継ぎ醤油、質屋、両替屋を営み、金沢城へ木材や竹を納める御用商人となり、ばい船... 続きを読む
安政の地震と大津波の被災者救援に当たった行動は「稲むらの火」として教科書に。 浜口梧陵
浜口家は、和歌山県有田郡広村(現在の広川町)の名望家である。広村の漁民は、古くから他国の海に出て漁をしていた。西は九州の五島列島、東は房総半島がその舞台だったが、銚子に定住する者が出てきた。 ふるさとの紀州と銚子をつないだのが、醤油である。広村のあたりは醤油の生産が盛んな土地であった。浜口家は、... 続きを読む
「家富み、繁盛して、自分の家の前に橋をかけ淀屋橋と名づけた」 淀屋辰五郎
「前代未聞の豪富」(米商日記)と謳われた淀屋の当主・五代目三郎右衛門、通称辰五郎が、町人の分限を超えた奢侈・驕慢を咎められ、闕所(田畑・家屋敷・家財の没収)に処せられたのは、宝永2年(1705年)5月であった。赤穂浪士の討ち入りの3年後のことである。 「屋敷を百間四方に構え、家作の美麗さは比べる... 続きを読む
「本間様には及びもないが」 本間光丘
「本間様には及びもないが、せめてなりたや殿様に」とうたわれた酒田の本間家は、江戸中期の豪農であり、豪商である。日本一の大地主でもあった。 本間光丘は、その本間家の三代目であり、「中興の祖」として隆盛の基礎を築いた人物である。「得を施し、得をえる」という哲学に基づき、私財を投じて、河川の治水、飢饉... 続きを読む
近江商人は、始末して勤勉に働くだけではなく、「売り手よし、買い手よし、世間によし」の「三方よし」で商いに励み、陰徳を積んだ。これこそが、お客様の満足を追求することにより企業の永続的発展を目ざす「顧客満足(CS)経営」の源流であり、世界に誇ることのできるビジネスモデルである。

